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池田林儀をめぐる時間旅行②「太平洋の姥捨て山」

2023年11月15日

「よく来ましたね!いらっしゃい!」

 

真っ青な空の下、春のマウイ島の空港で私をしっかり抱きしめてくれたのは、林子さんだった。初めましての筈なのに、なんだか懐かしいその人は真っ白な髪に背の高い女性だった。うっすら亡父にも似ていた。林儀おじさんの娘、に本当に会えるとは思わなかった。

 

彼女の友人だというマウイ島の人々を紹介され、皆で林子さんの家で昼食を取った。彼らはそれは珍し気に、それでいて長く会わなかった可愛い孫でも迎えるかのような、たっぷりとした親しみで接してくれた。笑顔が名刺代わり、なのはこの国らしい。

 

フィリピンにルーツを持つ野良鶏がコッコッコッと庭を横切り、テーブルの花瓶のハイビスカスのフューシャピンクが眩しい。椰子の木の葉が、海風にあおられている。

 

「まさか、リンコに日本の親戚がいたなんて驚いたわ!」林子さんの親友Dさんは、本当に驚いた様子だった。彼女も80代でアメリカ人だった。茶道を長く嗜まれている。イタリアンレストランで、林子さん、Dさんと私で「マウイ女子会」をすることにしたのだ。まだ林子さんがケニアに居た頃、Dさんはトランスワールド航空の客室乗務員だった。ナイロビ線で二人は出会い、以後、林子さんが引っ越すたびに中東やアフリカに遊びに来て、オレゴンやサンフランシスコを経て、林子さんの誘いでこの美しい「姥捨て山」に来た。

 

いちごとビーツのサラダを食べながら、私は下手な英語で尋ねた。「Dさん、今まで滞在したどこの国が一番良かったですか」。Dさんは微笑んで「それはね、場所じゃないの。時代ね」。林子さんも頷いた。「そうね、時代よ。どの時代に暮らしたかがとても重要よ」。Dさんは続けた。「私が客室乗務員をしていた頃、それって60年代から70年代にかけてなんだけど、それはもうアメリカの航空業界の黄金時代だった。企業だけじゃない。乗客も今では比べ物にならないくらい、良いお客様ばかりだった。私たち社員も会社から航空券も貰えて、世界中を旅し放題!」時代か。確かにそうかもしれない。かつて、日本大使館を建設するプロジェクトで働いていた頃のモスクワは好景気で、実に華やかだった。美味しいレストラン、高額でおしゃれなアイテムのたくさん並ぶデパート。外国からのミュージシャンのコンサート。街ゆく人々は美しく、健全な自己肯定感を纏っていた。あの頃と今とでは、モスクワは天と地の差である。

 

「D、久美子はロシア語を話すのよ。ロシア語と日本語の通訳もやってるの」「ロシア語!?すごいわね、一体どうして」「大学でロシア文学を専攻した後、ロシアのラジオ局で働いていたんです」「ロシア文学は面白い。私も好きな作家がいるのよ。勿論英語で読んだんだけどね」「誰でしょう」「アンナ・アフマートヴァ、素晴らしい詩人だわ」なんと、アフマートヴァを愛するアメリカ人がいるとは。私の好きなパステルナークと同時代の詩人である。古典文学趣味のある人間など、このご時世ただでさえ少ない。私は、すぐにDさんが大好きになった。

 

林子さんのボーイフレンド(と言っても70代だ)のカートは、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。マウイ入りした翌日は、カートの車で林子さんと3人でドライヴに行った。マウイ島の火山・ハレアカラ山の山頂は3055m。なんと車で山頂まで行ける。自動車道路を作ってしまう合理性はアメリカ的なのかもしれない。強風にたたきつけられそうになりながら山頂に立てば、まるで別の遠い惑星にいるようだった。それもそのはず、「2001年宇宙の旅」のロケ地に使われたんだよ、とカート。珍しい高山植物銀剣草も見せてくれた。さらに、ホエールウォッチングにも連れ出してくれた。早朝、眠い目をこすりながらホテルで待っていると、元気に車から降りたカートは、自作のブリトーとコーヒーを差し出し「モーニング・ダイナーさ!食べて!」。林子さんはこれが普通よと言わんばかりに後ろの座席で悠然とコーヒーをすすっている。いつだって、外国での、こんな親しみのあるもてなしはとても嬉しい。カートのブリトーは温かく、美味しかった。

 

ここは、太平洋のジュエリーボックスだ。素晴らしい価値ある宝石がぎっしり詰まっている「姥捨て山」。「でもね、やるべきことが何もないと退屈な島よ。私には俳句があるから良いけれど」と林子さん。彼女は、ある伝統的な俳句結社の同人である。ケニアにアブダビ、エジプト等を経て遠く流れ着いたこの美しい島は、典雅なセンスを持つ彼女にぴったりだと思った。

 

そして、ここでは誰もロシアとウクライナの戦争の話はしない。島民にとっては、果てしなく遠い世界の戦という認識なのだろう。ここはアメリカでも有数の観光島、ロシアの戦争には左程関心もないのは見て取れた。

 

 

(続く)

 

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