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池田林儀をめぐる時間旅行①「マウイ島2023」

2023年11月8日

あれは1988年頃だったろうか。父が東京で親族に会い、その人が上梓した本を持って帰ってきたことがあった。当時、私達は仙台に暮らしていた。池田林子さん、林儀おじさんの三番目の娘さんだった。父の従姉で外国で暮らしている人だった。

  

「女ひとりのアフリカ」(1987年 集英社)は、彼女のケニアをはじめとする14年間のアフリカ生活のエッセイ。ヒルトンホテルの西アジア地区の幹部だったスコットランド人と結婚していた彼女は、アフリカや中東を転々とし、果ては離婚したのちもケニアに残った。シングルマザーで子育ての傍ら、首都ナイロビで旅行会社をやっていた。1975年の沖縄海洋博では、ケニア政府の要請で日本人にしてケニア館の館長を務めた、凄腕の「国際人」であった。当時の私にはアフリカは想像もつかない地域だった。「ナイロビってどこ?」しか思いつかないくらい異世界。他方、4歳上の姉は嬉々としてこの本を読んでいたことを覚えている。縁あって、彼女もその後エチオピアで働くことになったのは、異国を彷徨うDNAでもあるのだろうか。

  

2012年に父が亡くなり、知らせるべき人には知らせたのだが、昨年のある日、ふと「池田林子」さんのことを思い出した。彼女は、生きているのだろうか。インターネットのある世界はかくも便利で、いとも簡単に彼女は見つかった。なんと、俳句で日本文化の伝播に貢献したとかで賞を授与されたという英語の記事がマウイ島のある団体のサイトに記載されていた。ハワイで暮らしてたのか。早速、その団体を通じ、林子さん宛のメールを送ると、彼女は驚きを以て父の死を悼み、林儀おじさんに関する昔ばなし、少女時代の事などを書き送ってくれるようになった。過去への扉は、こうして開いたのだった。「マウイ島は私の姥捨て山ですよ」とユーモアを交える林子さんだが、アマゾンドットコムの会長も住むような島なら、私だって姥捨て山にしたい。

 

林子さんは、日本がまだ太平洋戦争のさなか、これまた外国生活の長かった林儀おじさんから様々な教養の「講義」のほか、秘密の英語の特訓を受けていた。日本の敗戦の頃には、仕事が取れるくらいに英語が出来ていたので、戦後仕事に困ったことなどなかったという。「仕事の方からこっちにくるのよ」。リスニングに関しては、当時米軍が情報収集目的で軍用ジープで毎週林儀おじさんに会いに来ていた。GHQのアメリカ人の英語が彼女のリスニング教材だった。

 

敗戦時、林儀おじさんは海軍特別報道部長、すなわち海軍の情報収集部門のトップだったのだが、それは自動的にA級戦犯になることを意味していた。しかし、ドイツや朝鮮半島等の情勢に明るい彼をGHQは情報収集の手段として利用することになる。巣鴨プリズン行きは免れ、GHQの監視下におかれた。絞首刑になった人々は、当然林儀おじさんの親しい知り合いで、本郷にあった家での新年会でかくし芸を披露するような間柄だった。それにつけても何が運命を変え、命を守るのか、まったくわかったものではない。

 

そんなやりとりの後、アメリカから突然林儀おじさんの研究をしているという研究者がやってきて、林子さんを紹介しようと考えた。その場で初めて彼女に電話をし(そう、我々は文章でのコミュニケーションを好んだ)、このアメリカ人の先生がお話を聞きたいんですって、林子さんに会いたいそうですよ、と告げると、彼女は、勿論いいけど、久美子さんはいつ来てくれるのかしら、私はもう来年90になるのよ、早く来なさいというのであった。

 

ハワイかあ、アメリカだよね、ロシアにさんざん出入りしてた私が怪しまれないかしら。そもそも、パンケーキだのショッピングだの、あんなちゃらけたトコに行こうなんて考えたこともないよなあ。英語も最近殆ど話さないし…とはいえ、90近い人のリクエストを撥ね付ける勇気はなかった。人間、いつどうなるかわからない。万物は、流転してしまう。ロシアとウクライナの戦争のせいで、厭と言う程それは身に染みていた。その翌日、航空券とホテルを予約し、2023年3月、池田林子さんに会いに一路マウイ島を目指したのだった。

 

 

(続く)

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