お知らせ news

アメリカ人と東京でボルシチ・パーティをした件 池田林儀をめぐる時間旅行

2023年2月13日

私の大伯父・池田林儀(いけだ・しげのり)は、明治25年(1892年)秋田県仁賀保生まれのジャーナリストだった。

  

東京外国語学校シャム語科を卒業し、大隈重信の家で書生をし、読売報知新聞では大隈候の番記者をしていた。大隈候の後押しでドイツに留学していたこともある。1922年に報知新聞社で発行した大隈候の箴言集「隈候閑話」は、林儀おじさんの編集した本である。北原白秋の2番目の妻章子と駆け落ちした、と作家・瀬戸内寂聴は「ここ過ぎて白秋と三人の妻」で記していた。ロシア語が話せたので大正14年(1925年)、日ソ基本条約締結に際し、モスクワ滞在。昭和8年(1933年)、日本占領下のソウルで「京城日報」副社長兼編集局長をし、戦後は、アメリカに朝鮮半島の情報提供をする代わりに、巣鴨プリズン行きを逃れる。巣鴨プリズンで処刑された多くのA級戦犯たちは、本郷にあった池田の家の新年会の常連だった。新年のかくし芸大会は、彼らの正月の恒例行事だったのだ。戦後は秋田魁新報で随筆「話の耳袋」を連載していた。

 

これが、私の知りうる「林儀(りんぎ)おじさん」の輪郭だった。

林儀おじさんの人生に顔を出す大隈重信とロシア。早稲田露文出の私には馴染みの二つの要素は、彼を近しく思う理由の一つだ。

 

さて、1925年2月11日、池田林儀は雪のモスクワを目指し、満州の奉天を過ぎ、長春で東清鉄道支線に乗り換える。

 

そして、98年の時が流れた2023年2月11日。

東京では、池田林儀の大衆優生学研究に邁進されるアメリカ人文化人類学者が、私の家にやってきた。ミシガン大学名誉教授のジェニファー・ロバートソン先生。現在、東京大学が行う「東京カレッジ」プロジェクトでロボットに関する客員講座をされるために来日中とのことだった。

 

このロマンティックな時間旅行に相応しいのは、やっぱりボルシチだろう。前夜から、ヴェーラさんに習ったボルシチを煮込んでみた。ロバートソン教授とボルシチを囲みながら理解したのは、戦前、林儀おじさんは日本の大衆優生学の旗振り役であったことだった。ドイツに生き朝鮮半島に生きた時間は、非常に大きな影響をそこに与えていたことを私は初めて知った。日本社会を良くしていこうという熱い想いを込めたその活動の全貌は、まだ歴史のヴェールに包まれている。

 

過ぎ去った時の彼方から突然響いてくる、アメリカからの呼び声は、私達の家族の歴史に新しい福音をもたらす。ロバートソン先生、遠い海の向こうから私を見つけて下さり、心から感謝申し上げます。今、まさに軋みながら断絶してゆく世界を横目に、100年前の林儀おじさんの生き様を、息をひそめて見つめている。日に日に厳しい状況に置かれる、あの懐かしいロシアの行く末を案じながら。

 

 

株式会社日露サービス
代表取締役社長
野口久美子

ページの先頭へ