お知らせ news

初めて外国へ行った話 アメリカ合衆国ワシントン州

2025年12月11日

日本人はいつからアメリカで「ホームステイ」をするようになったのだろう。何を隠そう、私が初めて訪ねた国はアメリカ合衆国、西海岸に位置するワシントン州だった。高校のホームステイプログラムに参加し、2週間ほど滞在していた。

 

そもそも、「アメリカでホームステイ」した理由は二つ。一つ目は、80年代中盤、現代アメリカ家庭を扱った今でも興味深い少女漫画があったのだ。カリフォルニアのある家族を舞台に、恋愛を含めた人間関係、家族観、養子、貧困、同性愛、日本人少女のホームステイなど作家本人が見てきたアメリカにフィクションを混ぜ、テーマが暗くともいつも物語は明るいトーンで終わっていた。私も姉もこの漫画にドはまり、親にいつか大人になったらアメリカに行ってみたいと懇願したのであった。お先に高校生になった姉は夏休みにオレゴン州でホームステイをし、ますます羨ましい私は亡霊のように父の背中に張り付き、私も行きたい!お願い!と数年間哀訴に哀訴を続けたのであった。娘たちがする勉強(だけ)にはお金を作ってくれた亡父には、今でも感謝だ。二つ目は、当時英語圏でのホームステイは珍しくなくなり、高校生でも行ける気軽なものとなっていた。親も心配するような深刻な渡航(それはのちに姉がアフリカでボランティア、私がロシアで仕事をする際に感じることとなる)ではなく、子供たちにいわゆる「国際感覚」を身に着けさせるにはうってつけだったのであった。

 

高校の同級生・後輩10名ほどと先生方2名と訪問した先は、ワシントン州のある街だった。私のホストファミリーは、両親と15歳、13歳の少年、10歳の少女の5人家族。素敵な一軒家にカワイイ猫と犬。私専用の綺麗なインテリアの部屋もあった。黄昏の光が差し込む、ブルーベリーの茂みのある庭。うっわ~!まるであの漫画みたいなシチュエーション…。楽しみ~!最高!と初日は浮かれていた17歳の私だったが、アメリカ社会の興味深い現実を学ぶことになる。

 

まず、ダディは無職だった。マムがフルタイムで会社員をし、子供たちの送迎や食事の面倒を見るのはもっぱらダディ。大きな体で甲斐甲斐しく料理や洗濯をする大人の男性の姿に、私は大きなカルチャーショックを覚えた。実父はまさに昭和の父で、専業主婦の母に家事は丸投げだったからだ。子供たちもごく当たり前に父親を手伝い、自分のことは自分でやる、という躾がなされ、私はこれまでの生活のほとんどを母まかせの人生を恥じた。

 

さらに、当時私は大学に進学したらロシア文学を専攻すると決めていたのだが、ある日の食事でホストブラザーたちに「将来の夢は何か」と尋ねられたことがあった。私は自信たっぷりにド下手な英語で「ワタシ、東京ノ大学イクネ、大学デロシア文学勉強シタイネ!」。時は、1992年である。前年にソ連が崩壊、アメリカ国民には旧ソ連はまだまだ「未開の土地」であった。「なんで?なんでロシア文学?」「面白イネ。社会主義国モ面白イネ、日本ト違ウネ!」私は異なる文化に対する恐怖より関心の方が強い性質であったが、彼らはちょっと違った。日本ではラジオ講座でロシア語を勉強している、と話すと少年たちは「そうなんだ~」と黙ってしまった。そして、その翌日から彼らの私への態度は著しく変わったのである。

 

「クミコ、おはよう!」「オハヨウ!」「今日は野球を見に行こうよ」野球かあ。あんまり興味ないけど誘ってくれるし行こうかな?「行キマス」「じゃあ14時に出発するよ」「OK」。家からさほど遠くはない大きな野球場につくと、ホストブラザーはこっちが良い席だよと席を用意し、コーラを買ってきてくれた。あれこれと野球について解説し、自分も野球をすることを楽し気に語ってくれた。真夏の午後のスタジアムは明るく、星条旗が翻り、人々は思い思いに観戦を楽しんでいた。野球のルールはあまりよくわからなかったけれど、楽しかった。

 

またある日の夕方。「この間、野球面白かった?」「ハイ」「じゃあさ、庭で野球やろうよ、教えてあげる」サザエさんの中島くんよろしく、野球やろうぜ~!である。子供とはいえ死球でケガする、絶対。球技得意じゃないもん。「エエエエエ!!ナンデ?デキナイネ~!!」「できるよ、教える」「ヤダ~!」「大丈夫、簡単だよ」「野球ジャナイ遊ビガイイネ」「ううん…野球はね、『アメリカの伝統』なんだよ」。はーん。私はやっと理解した。彼らはロシアの匂いをさせた私を警戒し、なんとかアメリカが素晴らしい国であること、アメリカ文化の面白さを教えたかったのだ。彼らの部屋に小説はなく、あまり文学に関心がないのは分かっていたし、いきなりロシア文学など読むはずもない。我々は異なる精神世界に生きていたのは明らかだった。「さあ、庭に出ようよ!」「ヤダネ~!!」抵抗虚しく腕を取られ、バットを持たされ「伝統」に付き合わされる羽目に…。しかしながら、バットはかすりもせず、彼らはこの日本人少女に憐憫のまなざしを送るのであった。

 

そんなこんなで「伝統」を学ばされた楽しい日々も終わり、ダディは「高校を卒業したらこっちの大学に進学したらいいじゃないか」と言った。それを聞きつけたホストブラザーたちは「そうだよ!ワシントン大学があるんだよ。良い大学で僕たちもそこに進学したいんだよ。一緒に行こうよ!」まだ十代半ばなのに、もう進学先を決めている少年たちに私は驚いた。次男坊はまだ13歳なのだ。アメリカの大学かあ。進学ったって、次男坊が入学する頃には私は卒業よ…。「イイデスネ、帰ッタラ両親ニキキマス」その気はなかったが、そう答えた。「ワシントン州で進学するならまたうちで暮らせばいいからね」。また来い、と言ってくれるダディに涙がでそうになった。子供たちと遊んでばかりで手伝いも適当、英語もあまり上手くない、他方旧敵国のロシア語に関心がある変わった日本人にそこまで手を差し伸べてくれるなんて。つくづく、未熟な時代の、よそ様からの親切ほど懐かしく温かいものはない。成人して久しい今、そんな風に言ってくれる外国人は非常に少ない。私はなんと恵まれていたことか。

 

それから7年が経過し、ホストブラザーたちに大見えを切った通りに、とはいえ浪人したのだが、「東京の大学でロシア文学」を学んだ私はハバロフスクのロシア国営放送で働いていた。当時、現地で日本政府が運営する日本センターには日本語のできる何人かの同じ世代の若いロシア人がおり、日本語とロシア語を理解する若者同士親しくなった。驚いたことに、彼らの数人も「1990年代の前半にオレゴン州(ワシントン州に隣接する州)でホームステイした」と言っていたのである。彼らは露米のなんらかのプログラムで、無料で行ったと言っていた。当時、外国人の若者にそういった機会を与え、親米的な世代を育成するプログラムでもあったのだろうか。

 

そしてそこから数十年、私はアメリカと無縁の人生を送っていたのだが、数年前、林儀おじさんの研究をしていたというアメリカ人の大学教授がうちに訪ねてきてくださった。それに端を発しアメリカ国籍を取りアメリカに暮らす、林儀おじさんの三女林子さんとの交流が深まった。彼女を訪問するために生まれて初めてマウイ島に渡った。かつて日本人が移民し、まさに太平洋のジュエリー・ボックスのようなこの美しい島は私にさらなる異文化の受容を教えてくれた。ホストファミリーならぬ、本物のファミリーがアメリカに暮らし、私はその街を毎年訪ねる運びとなったのであった。ロシアや旧ソ連のように、仕事でアメリカと関わることはなかったが、また別の血縁のつながりがあったことはおもいもかけない人生からの贈り物。ロシア・旧ソ連もアメリカもそれぞれに大きな魅力があることを、私は知っている。いつか、ロシア国民とアメリカ国民が手を取って素晴らしい世界を構築する。彼らは、きっと愛し合えるだろう。そう思いながら、平和の成就する時を、この極東の片隅で一人待ちわびている。

 

株式会社日露サービス
代表取締役社長
野口久美子

ページの先頭へ