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ロシアからの訪問者

2026年4月25日

先日、通信アプリ経由で見知らぬ女性からメッセージが届いた。その人はハバロフスクのロシア人で、私の知り合いであるところのロシア人に私の電話番号を教えて貰ったという。今、日本に来ているのでお会いしたい、という趣旨であった。

 

紹介者、仮にX氏としよう。X氏は、10年近く前にある農業プロジェクトのロシア側担当者で、私は日本側の渉外、あるいは通訳やコーディネートをして大変御世話になった方だった。そのプロジェクトはハバロフスクで実施され、当時、様々な日本企業がロシアでプロジェクトを行っていたが、大概は日本側が投資をしたり工場を建てたり、日本人の金が動く話ばかりだったのに対し、この案件を主導したのはあるロシア人の富豪とその周囲にいるロシア人達だった。我々は1円も出していない。むしろ、彼らが金を払い我々は動いたのだった。

 

ハバロフスクは、私が大学を卒業して最初に働いた町だった。新卒でロシア国営企業に就職できたのは、ひとえに大学の先生のお力添えでしかなかった。先生の下さった話に、私はその場で行きますと即答したのも、若さゆえだろう。しかし、やりたいことは常日頃温めておいた方がいい。そうすれば、風が吹いたときにすぐにその風にのることができるのだから。1990年代の終わりは、ロシアの暗黒時代とも言われる。ルーブル切り下げが起きた1998年にロシアで就職した私も、御多分に漏れず、一通りの苦労をした。停電や断水は珍しくなかった。給与の支払いが遅れることもあったし、モスクワ本局から来た幹部職員は我々に生活の聞き取り調査をし、出来ることはやりますと言った割に結局何もしてくれなかった。そういった当時の耐乏生活の一部に外国人である私が居たことを、X氏は面白がり、非常に高く買ってくれたのであった。

 

X氏は、非常に優秀なエンジニアでもあり、当のプロジェクトの主導者であるロシアの富豪は彼を右腕として日本人とのこの仕事を任せていた。ハバロフスクの中心地にある昔の邸宅が百貨店となっており、それがこの町のランドマークの一つだった。それもこの富豪が買い取り、X氏の執務室もその中にあった。あの百貨店にオフィスを置くなんて…とおののいたものだった。新卒で働いた時はとにかく大変だったのだが、2度目にハバロフスクで仕事ができたこと、それも非常に優秀であったり、長期的なヴィジョンを有する人々が集まったことは幸運であり、10年以上過ぎた今でもそれらの日々のあれこれが仕事に生きている。

 

2022年以降、状況は変わり、ロシアとビジネスを展開することが難しくなったことで、私と知り合いたいと言って連絡をしてくる、あるいは本当に日本にやってくるロシア人は激減した。逆に、今自分はロシア国外に出て、仕事を探しており、あなたの会社で採用はないかと履歴書を送ってくれるロシア人もいるのだが、会いに来て貰ったとしても将来性のある話は今は出来ない。日本社会はロシアと接点を持つことを、少しずつ忘れていく。それは仕方がないことだった。なにせ、祖先の代から数えてロシアとは101年目の付き合いだ。5年10年のこのような断絶は、大したことではない。

 

私は、恩義のあるX氏の紹介であるという訪問者、仮にY氏としよう、Y氏と会うことにした。全く知らない人だ。知らないけれども昔の縁である。むげにはできなかった。Y氏もまたかつての私のように、ロシア国営のある団体に勤めていると言う。日本料理店にお招きしお酒を飲みながら、ハバロフスクの話をした。長年精力的に日本との関係の発展に寄与されていた日本専門家のロシア人男性が80代になり、昨年自宅の火災で亡くなられた話を聞かされ、全く明るくない日露関係を思うだにうんざりするのだがますます暗い気持ちになるしかなかった。目の前の日本酒のグラスは空になり、酩酊した私達は更なる酩酊を求めて、地下のバーで更にワインを飲んで分かれた。上司に悪態をつく若い会社員のような気分だった。俺は悪くない、会社が悪いんだ。そう、私は悪くないわよ、国際社会が悪いんだってば~!と。

 

X氏が何故私にY氏を紹介したのか、正直なところあまりよく分からなかった。本人もさしたる理由は語らず、私とロシアの関係に関してもよくは知らない様子であった。戦争が起こる以前の日々は、ギリシャ神話のように遠かった。またいつか、かつてのようにX氏と共に仕事が出来る日が来るのだろうか。そんな日はもう来ないのかもしれない。根拠の定かではない、中東での戦争が起こり、我々は更に予測のつかない世界に放り込まれてしまったのだ。我々は一体どこへ流れつくのだろうか。

 

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