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20年を終えて

2018年11月2日

   2018年10月は、私にとって大きなピリオドを打った時間でした。
大学を卒業し、ロシアの仕事を始めてから、20年を迎えた節目の時でした。

1998年10月、ハバロフスクにあったロシア国営ラジオ公社ロシアの声日本課に就職したのは、早稲田を卒業してから数か月後のことです。当時のロシアは、ルーブル切り下げを行い、厳しい経済危機に苦しみ始めた時。そのような国の組織に、新卒で入るのは、大きな賭けでした。しかし、せっかく、子供の頃から興味のあったロシアの組織に正職員で入れるチャンスを、ふいにするわけにはいきません。今でも、あの決断は間違っていなかったと思っています。

20年を振り返って感じることが、2点あります。

1つ目は、日露両国の貿易高はこの20年で大きく伸びたにもかかわらず、二国間関係は、あまり変化がありません。ロシアに、日本に留学した若者たちも、別段日露に関われる職業につくことはありません。需要がないのです。一方、ビザ発給の要件も、緩和されつつあります。ひょっとしたら、この先の2,3年でこれらのよい影響が出るかもしれません。往来は簡単になったけれど、それぞれの社会が、お互いをあまり必要としていない状態が、長く続いています。日本は、エネルギーにしても、ロシアに頼らなくてもやっていけるのです。火中の栗を拾いかねないような関係は、止めておきたい、と考える日本人は多いのでしょう。

2つ目は、ロシア社会の大きな変化です。日頃、ロシアに関心のない日本人の多くが、未だに店頭で行列を作ったり、ものが無いイメージを持ちますが、それは過去のものとなりました。スマートフォンを持ち、ピカピカの自動車に乗り、タクシーアプリで車を呼び。ロシアの生活水準は上昇しました。また、価値観も多様化しています。もともとテクノロジーに関心のたかい社会です、イノベーションは大歓迎ですから、進んで近代化することを選んでいます。そこに日本が入って行く隙間が無くなってきました。医療は別として、日本人が、ロシア社会の利益になるような技術を持たなくなったともいえるのかもしれません。

   アナウンサー、国家公務員、通訳者、翻訳者、コーディネーター、友好協会の理事…すべてロシアにまつわる、ひとつの分野を、20年続けてこられたのは、周囲の人々の理解とサポートあってでした。今、振り返れば、奇跡の連続であった様に思えます。特に、2016年の山口での日露首脳会談の御仕事ができたのは、幸運でした。そして、さまざまな人々との出会いに彩られた20年でした。世界の様々な場所で出会えた、すべての方々に、心から感謝しています。

やりたい仕事を自分のものにする厳しさは、この20年、常に味わってきました。私なりに、これからも地道に、日本の国際化に役立っていけるような仕事をしていきたいと思っています。

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